タイガース二軍史

タイガースでの二軍システム始まりからウエスタンリーグ発足までの経緯をまとめます。


二軍の始まり 1950年

2リーグ分裂が起こった1950年の大阪タイガースは、若林監督他数名が毎日オリオンズへの流出する(→毎日引き抜き事件リンク)など主力選手の流出により、チーム再建へむけての新しい戦力の確保が急務となっていた。
14球団と一気に球団数が増えた事で「チームの戦力増強を図るには自らの手で育てる以外に術はない」との判断が球団首脳から下された[1]。
実は既に一年前の1949年には、巨人・阪急・南海などが二軍を作り、テスト生を採用していたのだった。
田中常務は二軍を作るためにフロントの強化をはかった。田中の持つ関西大学系列から、浅野秀雄を二軍マネージャー(球団総務課長)に、関西球界に顔の広い森田忠勇を二軍監督に、また当時関大の学生だった青木一三を二軍マネージャー補佐にそれぞれ採用した。初期の二軍に大きな役割を果たす事になるこの三人を「関大トリオ」と言う。

市岡中学で甲子園に出場し、その後関大へと進んだ森田忠勇は関西球界に極めて顔が広かった。森田の人脈から勧誘した選手達に1950年2月新人テストを行い、合格したメンバー17名を二軍メンバーとしてタイガースに採用する事とした。
(50年の野球連盟名簿では他にも2軍の選手がいるが「阪神タイガース昭和のあゆみ」によると下記のメンバーとなる)

投手 西村修△ 杣田登 竹元勝雄△ 深見吉夫△ 丸山一男 小沢馨△
捕手 長谷部栄一 藤沢新六△
内野手 島田吉郎 坂田正芳 仲忠雄 冷水美夫
外野手 渡辺博之 奥村高明 河野博 岡田功△ 丸岡武△

(△は1軍枠の関係で選手登録されていない選手 正式なリーグの名簿には名前が出ていないので注意)

タイガース二軍は、結成された1050年夏に松竹二軍・巨人二軍と帯同し北海道各地を転戦した。
渡辺博之は同志社大学時代から有名で、森田が旧知で連れてきた選手。渡辺は即一軍に昇格したが、実際のところ西村修や藤沢新六のような甲子園のスター選手であっても、なかなかうまく一軍に上がれなかった。
この最初の二軍メンバー、竹元氏と岡田氏はセントラルリーグの審判員となります。小沢氏、長谷部氏、藤沢氏はアマチュア球界の有能な指導者となります。杣田氏は球団に残り二軍の担当者を経て虎風荘の寮長になります。
一軍実績を残したのは渡辺博之ただ一人であったにも関わらず、球界の発展に寄与した多くの人材を育成された森田忠勇監督の指導には、ただただ敬意を払うばかりです。

プロ野球二軍選手権  1950.11.22〜25

新聞を閲覧していると 第一回日本シリーズの裏でこのような大会が開催されているのを発見しました[2]。
ファームの日本一決定戦とでもいうのでしょうか。新聞の記録抜粋
優勝は南海、タイガースは2位だったようだ。

南海二軍は結成2年目。決勝戦のバッテリー 安田と北村は、1950年にわずかながら一軍の出場経験がある選手でした。
これに対して阪神二軍は結成1年目で準優勝でした。竹元勝雄が阪神の投手として完封勝利を行っています。おそらく全国紙の新聞に審判ではなく選手として竹元の活躍が載ったのは、これ一回限りかと思います。

松竹2軍はこの大会に参加していないのか、ここには名を見る事が出来ない。
山陽電鉄が独立二軍チームの「山陽クラウンズ」を結成して参加している事は注目です。
山陽は総監督に加藤吉兵衛(関西の財界人らしい)、監督に近藤金光(亨栄商卒 34年甲子園に出場した鉄腕投手)というメンバーで加わったとされている。山陽クラウンズは52年10月「現在の日本では選手の養成機関といった形のものは経済的になりたたない」と解散しており[3]実態が不明な点が多いので、活躍の記録として貴重です。

前座試合  1951−1952

二軍ができた当初は今のように組織だったリーグ戦ではなく、一軍の前座で二軍戦を行っていました。
たかが全是試合の結果、記された資料はほとんど存在しないのですが、スポーツニッポン3月21日のセ・リーグ開幕戦〜三船完封 の記事の隣に、前座で開催されている二軍戦の結果が掲載されている[4]ものを発見した。

二軍仲よく引き分け 名古屋1−1阪神  安打数は9−4で名古屋 (甲子園球場) 

名古屋は石川、阪神は坂田の安打でともに四球走者を迎え入れ、両軍仲良く引き分け試合に終わったが、
名古屋は毎回走者を出し、9安打を放って終始試合の主導権を握りながら拙攻で勝利を逸してしまった。
しかしゲームはインニングが示すほどの投手戦ではなく、双方満塁のチャンスもものに出来ないほどの貧打戦であり、
また審判のミスジャッジは目に余るものがあった。 【山本達雄】

二塁打=山崎 併殺=神1、名2 時間=1時間42分 審判=中川、有沢、寺本
[名古屋]
8山崎善平
9小島禎二
7藤野光久
3高木公男
5菅野武雄
4堀田守和
6小沢重光
2一柳忠尚
1石川克彦→木村博

[阪神]
6坂田正芳 
8丸岡武 
7横山光次 
9岡田功 
3片山春男 
5横井啓二→大原博志
1上沼秀人→岩村吉博→赤松瞭→PH三浦正造 
2小川仁久→伊藤正彦 
4杣田登

当時のスポーツ新聞にはこのように二軍前座試合の結果が記されているが、1950年代のスポーツ新聞は一般の図書館に置かれていないため新聞社の協力がなければ閲覧する事は非常に難しいと思う。

関西ファームリーグ 1952−1954

ファームは選手の育成強化が目的だが、昇進して華々しい活躍をする選手が数少なく、効果が出ていなかった事は事実だ。
「単に申し合い試合をやっているだけでは選手の励みにならない」という大阪朝日新聞社・芥田武夫運動部長の助言によって52年4月15日、阪神・阪急・松竹・南海・名古屋・西鉄に山陽の7球団は関西ファームリーグを結成した[3]。
芥田武夫は元々早大のスタープレーヤーで1935年に朝日新聞に入社してから野球畑ひとすじの記者。この時代、新聞社が球界に道筋をつけるのは当たり前のことだった。芥田はこの直後1952年後半から近鉄監督に就任した。

ファームリーグはプロ野球機構から承認されたものではなかったので費用は各球団が折半した。当初はうまく運営されたとは言いがたかったようだ。

リーグの中心となったのは各球団のフロント・二軍監督だった。
近藤武次(南海)が幹事長、幹事は浅野秀雄(阪神)丸岡千年次(阪急 スカウト)佐々木一郎(松竹)宮坂達雄(名古屋 51年〜初代二軍監督)武井清(西鉄)。 

山陽は1年だけで離脱。翌年に松竹も洋松ロビンズとなって離脱したが、53年からは芥田が監督に就任した近鉄が参加した。
54年はセ・リーグの各球団が(読売主導によるパ・リーグつぶしのような形で)発足した新日本リーグに参加する事により離脱する事となったが、南海・阪急・近鉄・西鉄の4球団でリーグを継続したようだ。これが後のウエスタンリーグの母体となったため、ウエスタンはイースタンよりも速やかに組織化と運営が進んだと言われています。

初年度の勝敗結果は新聞紙上でも一部確認する事ができる。

新日本リーグ 1954−1955

53年末から鈴木セ・リーグ会長が進めてきたセ・リーグ所属6球団の2軍によるリーグは54年1月17日に新日本リーグとして発表された。
新日本リーグの会長には元大阪タイガース代表(リーグ分裂後の心労で退団して、後に連盟役員となっていた)富樫興一が就任した。
森永製菓をスポンサーとして地方都市を中心にリーグの興行を繰り広げたそうだ。[5]

この新日本リーグに参加した球団と本拠地は
広島グリーンズ(呉)
読売ジュニアジャイアンツ(横浜)
阪神ジャガース(神戸)
洋松ジュニアロビンス(北九州)
中日ダイアモンズ(静岡)
国鉄フレッシュスワローズ(大宮)

阪神ジャガースというネーミングはすごくセンスが感じられますが、ジュニアジャイアンツというのはいただけないですな。
ジャガースのホームグラウンドは神戸市民球場(神戸市長田区西代)。阪神ジャガースと名をつけたのは、本拠地が神戸となった為に”大阪”タイガースではおかしいからでした。
3月28日のジャガーズ披露試合は観衆2000人(すごい! 鳴尾浜球場のスタンドでは入りきらない)で読売・中日との変則ダブルヘッダー。第一試合の読売戦は長尾旬・山中雅博のリレーで2−0で完封勝利、第二試合の中日戦は大根晃・山部濡也・宮崎逸人・赤松瞭のリレーで5−3で逃げ切り、2連勝でした。
このジャガースから、後に正捕手となった山本哲也、三塁手の三宅秀史、代打の切り札横山光次らが育ったのでした。
54年、前期はジュニアジャイアンツ、後期はジャガースが優勝した。年度王座決定戦ではジャガース2勝−ジュニアジャイアンツ1勝でジャガースが初代王者となりました。MVPは横山光次でした。

二軍マネージャーには前年に引退した杣田登が就任していました。

55年にも新規発足したウエスタンリーグと平行して新日本リーグは続けられたのですが、日程の調整がうまくつかず二重に費用もかかるという点で立ち消えになってしまいました。55年のジャガースは15試合9勝5敗1分の成績で一番勝利数が多かったのですが優勝ではなかった。なぜなら太洋は10試合しか出来なかったため試合数が異なって優勝を決められなかったわけです。

ウエスタンリーグ 1955−

阪神電鉄側の視点から言えば、関西ファームリーグの方が新日本リーグよりも費用もかからず、以前から仲のよい関西球団同士が相手なので話が進めやすかった。新日本リーグより長所が多かった。

関西ファームリーグに残されたパ4球団にとっても、中途半端な形でリーグを継続するのは頭の痛い話だった。これが背景となってパ・リーグの代表者会が「日本マイナーリーグ結成に関する草案」を審議し、これを元に2つのファーム組織が生まれたという。
ウエスタンリーグは55年3月1日に阪神、阪急、南海、近鉄、中日、広島、西鉄の7球団で発足した。関西ファームリーグの仲間に広島を加えただけだったので、同時に発足したイースタンリーグが発足当初から混迷していたのに比べて、スムーズに組織運営ができたという。
阪神は継続してジャガーズを名乗ることとなるが、中日は早々とドラゴンズに戻しました。

阪神ジャガース
阪急ブレーブス
南海ホークス
近鉄パールズ
中日ドラゴンズ
広島グリーンズ
西鉄ライオンズ

4月3日に開幕したウエスタンリーグの初日のカードは
藤井寺 阪神 2−0 近鉄  (阪神 長尾旬滝英男  近鉄 岡本教平・若杉輝明−山田清三郎・加藤昌利)
中モズ 阪急 4−2 南海  (阪急 蔵文男−斎藤勝彦  南海 皆川睦男・山本義司−野村克也
南海は3人ともプロで大成した選手です。
近鉄の先発は前年都市対抗で大活躍した川崎トキコの岡本、加藤は洲本高校の優勝捕手で後に審判になった、若杉は日大三で甲子園に出場したエース、山田も甲子園に出場していました。

初年度の55年は阪神ジャガースが14勝9敗1分で優勝した。
阪神二軍の名称は56年までジャガースで、その後タイガースとなりました。広島は56年57年にカープグリーナスと名乗り、58年よりカープとなりました。西鉄が離脱する1979年まではこの体制でした。

ウエスタンリーグでの戦跡


引用文献
[1] 株式会社阪神タイガース 「阪神タイガース 昭和のあゆみ」 P186, 1991
[2] 毎日新聞 縮刷版 1950年
[3] 株式会社阪神タイガース 「阪神タイガース 昭和のあゆみ」 P217, 1991
[4] SREATE UP CO.'LTD. グループトラキチ21 「新聞紙面で見る猛虎の挑戦 阪神タイガースの歩み」 P14, 1999
[5] 株式会社阪神タイガース 「阪神タイガース 昭和のあゆみ」 P232, 1991

制定 2002年 2月
改訂1 2009年3月1日

げんまつWEBタイガース歴史研究室