合宿所の始まり 協和寮 今津の合宿 甲子園三番町の合宿と球場での生活 若竹荘
初代虎風荘 タイガーデン虎風荘 虎風荘の寮長
松木謙治郎氏が「タイガースの球団史」の中で語っている部分を引用する。(なにしろ合宿所を造った人なのだ)
「創立時若い選手は、といっても妻帯者は私と若林だけで、ほかは独身、ほとんど球場の近くの甲子園アパートに住んでいた。しかしこれでは門限、外泊などの規律がとれないので、翌十二年(1937年)球団に依頼して合宿を設立することになった。この寮長が伊賀上であったが、門限近くなると玄関に座り込み、首実見をしていた。また消灯時間には各室の電気を消して回るという管理ぶりだった。私は球団にこの合宿所を進言した関係で、責任を持たせれていたが、使用人の人件費、主食など球団が負担し、副食費だけは選手の頭割りだった。〜以下略」
小説家 佐藤紅緑(さとう こうろく 本名・洽六 1874〜1949青森県弘前市生まれ 代表作「あゝ玉杯に花うけて」
)が住んでいた家を買い取ったタイガースの初代合宿所。「阪神タイガース昭和のあゆみ」の写真を掲載しますが、3階まである入母屋の大きな家です。佐藤紅緑の著書をいくらか読んでみましたが、残念ながら甲子園にいた頃にどういう家に住んでいたのかを書いた部分は見つけられていません。最初は単に「合宿」と呼んでいたようですが、1940年3月10日に「協和寮」と名付けられました。「協和寮」は1945年の西宮市の空襲で焼失しました。
甲子園駅の側にあったという事ですが、阪神電鉄の土地でない住宅ならば甲子園浦風町(ノボテル北側)あたりでしょうか。子供時代の富樫兄弟(富樫淳と兄)は毎日のように寮に遊びに行っていたようです。
2階3階に選手が寝泊りしていたようですが、建物を見れば個室ではない事ぐらいは容易に想像がつきます。3階から小便する連中がいたとの事で、下りるのが面倒くさい者らが窓から並んで用をたしたのでしょう。
テッド亀田は寮の食事について「たくわん一切れでどんぶり飯をかきこむ日本人選手に驚いた」と言います。時代がそうであるように、野球選手であっても豪華な食事とはいかないようです。
戦後史の中で「今津の合宿所近くの空き地を利用してキャッチボールをやるだけの日々を送った」とある。
戦後、疎開先の米沢から富樫代表が戻るまでは、宝塚にいた田中常務がまず選手を集めた。阪神で車両関係や土木関係の仕事をしていた門前・本堂・呉、復員してきた土井垣・藤村らが集まって、チームの再編を始めた時に使用した合宿が今津の津門呉羽町にあった2階建ての住宅だった。この家は後に藤村富美男の所有となったそうだが現存しない。阪神今津駅北側・阪急今津駅東側の一角でした。
1950年ごろには選手も増え、新たな合宿所が必要となった為に、甲子園三番町の阪神電鉄所有の四間ほどの平屋を合宿にあてがった。松木監督も同じ合宿で生活していた。
二軍選手は全員はいるには狭いこともあり、甲子園球場のスタンド下に特設された「屋根裏の合宿」と呼ばれた広い部屋に全員が寝泊りした。合宿とは言え、畳の替わりにベースが30個ほど並べられ、年中日が差さない北向きの部屋だった。51年のベースボールマガジンによると、竹元・竹野・青木・上沼・大島らがスタンドの住民だったそうだ。
51年5月に球場傍に合宿所を新設するとの噂はあったが、なかなか実現しなかった。選手がどんどん選手が増え手狭なために、当時は鳴尾にあった老舗旅館である夕立荘、やっこ旅館を間借りしたりして対処したという。やっこ旅館には西村一孔が間借りした。
戦後の阪神電鉄の復興も一段落した1956年からの合宿所は若竹荘だ。
若竹荘は球団専用の鉄骨2階建ての合宿所だったようだが、既存の建物の転用だったようだ。現在の甲子園テニススクール(1塁側アルプス席西側)の場所にあって、16室の部屋を備えていたそうだ。この建物が何の目的で建てられたか私は知らないので推定だが、戦前から阪神電鉄は甲子園のテニス場に色々なスポーツの合宿用として安く泊まれる「庭球寮」を準備していた。「庭球寮」は食堂もついた合宿所なので、おそらくそれが転用されたのではないかと考えています。
当時、球団に寮を新築するほどのお金もなかったようですし、わずか6年という使用期間から考えても、古くなった寮を転用したのだろうと推定しています。
ところで、並木輝男の59年の住所は 西宮市鳴尾町西畑35 となっています。この地名は現存しません。若竹荘は現在の甲子園町にあたりますが、鳴尾村を合併して間もない頃で、鳴尾村西畑だったため、若竹荘の住所は村の当時の西畑という地名だったと思われます。
甲子園球場の東隣、甲子園7番町20-22に新築された鉄筋コンクリート5階建ての合宿所でした。1階は食堂・浴場・応接室。2階は寮長や職員の部屋。3〜5階に選手用の部屋が東向5室・南向と北向が3室ずつ・西向が2室で1フロアに各13室ありました。
球団の経営は苦しかったので阪神電鉄が建設して球団にリースする形をとった。文学に長けた野田誠三オーナーが虎風荘と命名した。玄関上には「HANSHIN TIGERS」と書かれ、屋上に球団旗がなびく光景はいかにも球団の寮といった感じだった。試合前後には玄関前でファンが輪を作った。主に4・5階に入居していた2軍選手の門限は10時30分、ナイターがある一軍選手は主に3階に入居して門限は0時と区別されていた。入団した頃の中西清起は門限以降に脱出しようと塀を乗り越えて怪我をした事がある。
甲子園球場までは歩いて通うのだが、92年の新庄フィーバーではファンが殺到したため合宿所から出る事が出来なくなり、車で裏口から出たというエピソードもある。
週刊トラトラタイガースで内部が中継された事がありますが、寮の内部は普通の学生アパートみたいで狭い和室でした。狭いためか、80年代には25歳以上の年長者は1人で2部屋を使っていました。
兵庫県の埋立地として80年代に造成された鳴尾浜に、94年設立されたタイガーデン(TigerDen:虎の巣)は合宿所に鳴尾浜球場と室内練習場を併設している。(〒663-8142 兵庫県西宮市鳴尾浜1-3-9)
選手と職員は37000円の寮費で住む事が出来ますが、既婚者は入居不可。ただし、阪神大震災後に神戸から甲子園に通えなくなった真弓明信が単身入居した事が特例としてあります。
鉄筋4階建て、2Fのロビーの天井が高く吹き抜けになっており、実際には5階立てぐらいの高さがあります。
球場から寮までの移動はファンを隔離して出来るようになり、特に00年の盗難事件以降は厳しく管理されているため、安全ではあるが昔を知るファンとしては少し淋しい気がします。
初代 杣田登 1962−1969
二代 沼本喜久雄 1970−1982
育成担当課長 藤村隆男 1980−1982 (甲子園7番町に住んでいた)
三代 久代義明 1983
四代 梅本正之 1984−1995
五代 渡辺長助 1996−1998
六代 梅本正之(復帰) 1998−
七代 山本晴三 2004.1−2009 (副寮長)西口裕二 2009.1−
八代 高木昇2010−
改訂1 2004.1.5
改訂2 2009.5.5
改訂3 2010.2.28 寮長交代