タイガース通算233勝。ハワイ出身の六大学の剛球投手だが、本当の意味で活躍したのは30歳で肩を故障してから後だった。日本球界を代表する投手で「七色の変化球」を駆使し抜群の勝負勘と制球力で活躍した。なんと41歳の時に15勝している。幹部候補として将来を任されていたのだが、選手を思うがゆえのグランド外でのスタンドプレーで球団と対立し、毎日に移籍した。それ程野球を愛していた。
MVP2回 最高勝率2回 最優秀防御率2回 最多勝1回 愛称はBOZO
1908.3.1生
出身地 ハアイオワフ島 日系人(両親は広島県出身)
出身校 マッキンレー高校 本牧中学(半年だけ) 法政大学
ノンプロ 川崎コロンビア
投手 右投右打
マッキンレー高校で1年先輩の田中義雄の指導で投手になり、ハイスクールに在籍しながらハワイ朝日軍で活躍
28年 カリフォルニア州の日系人チーム大和軍のメンバーとして来日 法政大学から川崎コロンビア
35年 都市対抗出場 1回戦完封 2回戦2失点 準決勝完封 決勝は7回3失点も準優勝
36年 1月9日 大阪タイガースに入団 契約金は当時破格の3000円
36年 大阪タイガース 背番号18 春9試合5勝2敗 3.97 秋 開幕投手 12試合5勝4敗2.25
37年春 21試合8勝2敗 1.76
37年秋 19試合9勝4敗 2.49 開幕投手 東西対抗出場
38年春 肩を痛めて登板なし
38年秋 7試合4勝2敗 3.00 東西対抗出場
39年 主将 48試合28勝7敗 1.09 開幕投手 防御率1位 勝率1位 東西対抗出場
40年 助監督 56試合22勝17敗 1.81 東西対抗出場 日本国籍習得
41年 助監督 42試合18勝17敗 1.45 開幕投手 東西対抗出場
42年 兼任監督 58試合26勝12敗 1.60 開幕投手 東西対抗出場
43年 兼任監督 52試合24勝15敗 1.06 10完封 東西対抗に監督として出場
44年 兼任監督 31試合22勝4敗 1.56 MVP 防御率1位 最多勝 勝率1位 東西対抗に監督として出場
45年 兼任監督として正月大会先発出場 退団、妻の実家の石巻に疎開 会社経営
戦後日和クラブで活動していたが、球界復帰を望まなかった婦人に黙って9月に球界復帰(38歳)
46年 背番号18 12試合4勝4敗 3.04 東西対抗出場
47年 兼任監督 背番号30 43試合26勝12敗 2.09 10完封 開幕投手 MVP 東西対抗監督で出場
48年 兼任監督 48試合17勝20敗 2.48 東西対抗出場
49年 兼任監督 43試合15勝14敗 3.29 開幕投手
毎日オリオンズに別当・呉らをつれて移籍(毎日事件)
50年〜53年 毎日オリオンズ 3年 27試合 4勝8敗 50年日本シリーズで好投し毎日の日本一に貢献した
54年 毎日オリオンズ 営業担当取締役
55年〜56年 トンボ・高橋ユニオンズ コーチ 顧問(ヤンキース日本常駐スカウト)
米国 MCA・TV日本代表
61年 大洋二軍投手コーチ 週二日の非常勤で登録なし
63年〜64年 西鉄ヘッドコーチ ウィルソン・ロイ・バーマを連れてきた
64年 野球殿堂入り
65年 3月5日逝去
主な参考資料:
七色の魔球〜回想の若林忠志 著者:山本茂 ベースボールマガジン社
プロ野球を変えた男達 著者:鈴木明 新潮社
実働16年
打撃 出場589試合 打数1472 安打319 本塁打7 打点147 盗塁17 犠打57 打率.217
投手 登板528試合 勝利237 敗戦144 完投263 投球回3557.1 奪三振1000 防御率1.99
監督通算7年 采配740試合 勝利390 敗戦324 引分26 勝率.546