阪神電鉄は1916年からノンプロチームを持っていた。雑誌「運動界」1921年3月号に「阪神電車は大阪球界随一の強チーム」という記事がある。ノンプロ阪神電鉄球団の実力は、関西では大毎野球団や杉村倉庫などと並ぶトップチームだったようだ。
プロ野球はどうかと言えば、実はタイガースが初めてではない。
職業野球の起こりは、日本初のプロ球団「日本運動協会」の発足。鳴尾球場で中学野球大会が行われていた頃の出来事だが、阪神電鉄は日本運動協会に縁がある。
人気の東京六大学野球が選手獲得のため、引き抜きや授業料の免除、挙句には小遣いの支給まで行うような状況になっていた。早稲田大学野球部長の安部磯雄はアマチュアとしての六大学野球に疑問を感じていた。安部の学生野球浄化の流れの中で、教え子だった河野安通志が「プロ球団を作りプロとアマの間に明確な線を引く」事を決意した。
安部は河野の提案に賛同し、1920年に資本金10万円で職業野球団「日本運動協会(通称芝浦協会)」を設立した。早稲田OBの橋戸信社長・河野安通志専務・押川清専務が中心となった。出資者は慶大の桜井弥一郎と神吉英三、東大の中野武二、日本石油の大村市蔵、阪神電鉄の野口社長となっている。
出資者たちは金は出すが口は出さないという方針だった。読売新聞が球団を作る15年前の事だった。
「日本運動協会」のホームグラウンド、芝浦球場は京浜線の田町駅近くで海に面していた。1921年7月18日の時事新報に選手公募の広告を出したそうで、74人の応募者から14人を採用した。野球だけではなく、プロ野球選手にふさわしい人間を作るために、午前学習・午後練習というスケジュールの合宿生活だった。待遇は食事つき1ケ月15円だったそうだ。1年間は学習にあけくれ、対外試合は行っていない。
翌年、1922年6月21日に初めての練習試合となった朝鮮満州遠征を行い、結果は12勝5敗だった。その後、駿台クラブや向陵クラブ・稲門クラブ等と対戦していたが、1923年の関東大震災で壊滅的な打撃を受けて解散した。
阪急の小林一三は「東京は当分だめであろうからオレの方で引き受けよう」と、1924年に「日本運動協会」を宝塚野球場にて引き取る事とし、「宝塚運動協会」と名づけた。阪神電鉄は既に日本運動協会の経営から身を引いている。
「宝塚運動協会」が関西のプロ野球の起源だ。小林一三はプロ野球の将来の発展を想定し、手始めに関西の電鉄会社それぞれが球場と球団を作って、対抗戦を開催しようと考えていた。阪急にノンプロ球団があったと言う記録を今のところ確認できていないので、宝塚運動協会を手に入れたのでしょう。阪急が資本に入って各選手の給料は75円に上がったそうだ。
(写真 宝塚球場跡地)
当時の大阪には阪神電鉄のほか、大毎野球団という強豪のセミプロチームがあり、神戸には六大学出身のスター選手らが所属していた富樫興一らのダイヤモンド倶楽部やスター倶楽部があり、野球熱が高かった。主な対戦相手は京大・四高・三高・大阪高商・神戸高商・スター倶楽部・ダイヤモンド倶楽部・大毎野球団・そして阪神電鉄だった。阪神電鉄は宝塚運動協会に善戦こそするが、勝てなかった。最も白熱したのが宝塚−大毎戦だったそうだ。しかし、大毎野球団は経営が苦しく廃止され、その後宝塚運動協会も最大の対戦相手を失って廃止された。
阪神電鉄のノンプロ球団は大阪野球倶楽部創設まで活動を続けていた。
ベースボールの社会史のP328以降に日米野球交流年表をまとめたものがある。
1905年に早稲田大学が米国に遠征したのが日米の野球交流の始まりとされている。1908年(明治41年)にリーチ・オール・アメリカンが来日し、これがアメリカの本格的なチームが来日した最初とされています。1913年にはジャイアンツとホワイトソックス帯同軍が来日し、正真正銘の日本での米プロの初対戦です。
本格的なアメリカ野球を日本に伝えたのはハーバードHハンターと言われています。1922年にハンターはベノック・ブッシュ・ホイト・ミューゼル・ステンゲル・ケリーなど一流大リーガーとモリアリティ審判をつれて最初の大リーグ選抜軍として来日した。芝浦球場で早慶明治相手に7試合、その後宝塚・鳴尾・岡崎公園・東遊園地で合計9試合を全関西やスター倶楽部・ダイヤモンド倶楽部・関学・神戸高商・などと対戦し、飯塚で中島鉱業と1試合対戦してから朝鮮へと渡った。
ハンターが10万円のギャラで読売に呼ばれる9年前の事で、歴史上はこれが最初の日米野球と言われています。
1928年にもハンターはタイカップ・ショーキー・ホフマンを連れて2度目の来日を果たしている。ただし、この年はチーム編成に失敗して4人だけの来日となってしまった。このため、大毎野球団と東京倶楽部に3人が加わっての連合軍を編成し、慶応・早稲田・明治・立教・関大などと対戦する事になった。神宮で6試合、甲子園で5試合、緑ヶ丘で1試合を行った。甲子園球場で初めてアメリカのスター選手がプレーしたわけだが、甲子園も神宮も開設当初の姿で両翼100mを越える大リーグレベルの野球場だったが、甲子園の右中間左中間のふくらみには大リーガーたちも驚いたほどの広さだったという。
関西大学野球理事長の田中義一は関大マネージャーの中川政人と共に1928年11月22日にこの連合軍対関西大学の対戦を甲子園球場で観戦し、ショーキーの投球やタイカップの個人技を目の当たりにした。そしていつの日か日本にも大リーグに負けないようなプロ野球を作りたいとの夢を抱くようになった。
さて、ハンターは二度目の来日でチーム編成を失敗したこともあり、日本での興業者をもとめるようになった。
大リーグの野球で十分儲かることを理解した読売新聞社は10万円のギャラでハンターが編成する大リーグ選抜軍を呼び、日米野球を行うという契約を1931年春に来日したハンターからとりつけ、1931年11月に日本各地で日米野球を興業した。読売新聞社ではこれを「第1回日米野球大会」と呼び、日米野球の始まりという位置づけにしている。最初の日米野球とはいえないが読売の金の力は偉大であり、この年はベーブルースをはじめルーゲーリック、グローブ、カクレン、モランビルらスーパースターが選抜軍として来日した。甲子園球場で日米野球を観戦した田中義一はその圧倒的なパワーとスピードに感激し、日本での職業や球団の結成を決意した。
日本では野球といえば「甲子園の中学野球」と「東京六大学野球」で、大阪朝日新聞が夏の甲子園を主催し、大阪毎日新聞が春の選抜甲子園と六大学OB戦とも言える都市対抗野球を主催していた。関西の新聞社は在京に比べて政治家等の関与を受けなかった分、大きく部数を伸ばしていた。発行部数では2社に大きく水をあけられていた在京の読売新聞社は、新聞の部数を伸ばすために職業野球の開催に非常に熱心だった。
1935年に「東京巨人軍はどのように発足したか」などと言う事は、いくらでも本に書かれているので、ここに記載する必要はないでしょう。東京巨人軍ができてから、やはり職業野球には対戦チームが必要だとなる。読売職業野球チームは最初、都市対抗に出場するレベルの社会人チームや人気の六大学チームと対戦していたが、やはりアマチュア相手の申し合わせという事で盛り上がりに欠けた。
対戦相手に東京に対する大阪を望んだ。その相手には先にプロ球団・宝塚運動協会を運営していた阪急ではなく、中学野球とノンプロで頑張っていた阪神を指名した。理由はもちろん東洋一の規模をほこる甲子園球場の存在だった。甲子園を得る事で開催球場の不安がなくなる上に、中学野球を主催する新聞社2社に牽制できる。もちろん阪神は優良企業だったが大毎野球団のように読売のライバルとなる新聞社ではない。先にリーグを作ろうとしていた阪急ではおもしろくない。阪神が加入すればどうせ阪急も入るだろう。相手選びは読売のしたたかな計算が見える。
ライバル阪急も阪神の職業チーム結成の動きを知り、六大学出身選手を中心にチームを結成しはじめた。
1936年、職業野球連盟結成時には、大阪タイガース、阪急軍、名古屋軍、名古屋金鯱軍、大東京軍、東京セネターズ、東京巨人軍の合計7チームが参加した。
一般にはそう言われているが、大阪タイガースの設立に深く関与したのが田中義一であり、その話は読売のリーグ結成の前から持ち上がっていた。
田中は甲子園を所有する阪神電鉄をなんとか球団経営に乗り出させようとあらゆる策を練っていた。少なくとも東京巨人が正式に発足する1935年よりも前から球団設立計画は進められていた。
参考文献
ベースボールの社会史 シミー堀尾と日米野球 (永田陽一、ベースボールマガジン社、1994年)
輸送奉仕の50年 (阪神電鉄 1955年)
阪神タイガース昭和のあゆみ プロ野球前史 (阪神タイガース 1991年)
阪神タイガース昭和のあゆみ (阪神タイガース 1991年)
阪神急行電鉄二十五年史 (阪神急行電鉄 1932年)
小林一三 逸翁自叙伝 (小林一三 日本図書センター 2000年)
幻の東京カッブス (小川勝 毎日新聞社 1996年)