清宝バスは清荒神と宝塚の間を運行していたバス会社だ。このバス会社は1934年に阪神の国道バスが買収し、尼崎から清荒神まで阪神バスが乗り入れる事となった。清宝バスの専務は田中義一(関西大学野球倶楽部理事長)だった。
田中は大阪に職業野球団を結成したいと強く考えていた。そして大阪に球団を結成するには甲子園球場を所有する阪神にやらせるしかないと考えていた。
1932年11月25日、阪神は尼崎の西大島からライバル阪急の本拠地である宝塚歌劇場前までの間にバス専用道路を設置し、大阪福島から宝塚と神戸滝道から宝塚までの直行バスを運行し始めた。これが現在の阪神バス宝塚線の前身です。
実は清宝バス買収には阪急が先に触手を伸ばしていました。宝塚も清荒神も阪急の駅ですから阪急が買収に乗り出すのは当然の事でした。
清宝バスは清荒神の門前まで乗り入れていた。阪神が清宝バスを手に入れたことにより、尼崎から清荒神までの直通バスを運行できるようになった。阪急の駅に向かう前の客を門前で捕まえて尼崎から大阪・神戸に運ぶことができるようになったわけです。
清宝バスを阪神に売却したのは田中のプロ野球創立案によるもので、田中は清宝バスを阪神に売却して阪神グループの一員となったわけだ。阪急が先にねらっていたのだから、田中に甲子園とプロ野球への熱がなければ、阪急が清宝バスを買収していたのでしょう。
だから田中のタイガース創設計画は1934年以前から進められていた事が証明できるわけです。
(宝塚から清荒神への阪神バスは1976年に廃止となったので現存していません)
阪神と阪急の激しいライバル関係がなければ田中は阪神に入ることが出来ただろうか?
阪神に入り込んだ田中は承諾さえおりればすぐにでもプロ野球団を作れるように準備を始めた。 阪~電鉄は取締役支配人の細野躋が統括判断する立場だった。 野球好きだった細野はそもそも野球をやることには賛成していたが、問題は儲かるのか赤字が続くのかの経営判断だった。阪神は電鉄会社なのでそういう判断にはすごく時間がかかる。それが巨人よりも1年球団の結成が遅れた理由だろう。 そこで1935年9月17日に甲子園で開かれた巨人軍−全大阪の試合を実際に細野がスタンドで観戦して判断することとなった。もしも雨が降って試合が行われなければ、タイガースはできなかったかもしれなかった。実は前日の16日は夕方から雨が降り始めていた。しかし夜半過ぎに雨が上がり、甲子園が非常に水はけのいい球場だったため、翌日の17日の試合は最高のグランドコンディションで行われました。 細野は8000人もの客が入った事で興行的に成り立つと判断し、電鉄が球団を持つ事を承認した。 阪~電鉄は職業野球団の設立に際し、本社事業課係長の富樫興一を抜擢した。 富樫は慶応大学野球部出身で東京六大学野球のスタープレーヤーだった。球界に人脈が広く、野球をよく知っていた富樫の存在は大きかった。 1935年10月 球団設立準備事務所として阪~本社から数km離れた大阪中之島の堂島河畔、江商ビル407号室に12坪の事務所を構えた。目立たない場所に小さな事務所を置いたのは、ライバル阪急に動きを察知されないためだったと言うが、1週間後にはばれたようだ。10月22日、最初の選手として門前眞佐人が入団契約。このあと選手が続々と契約を済ませた。 |
大阪朝日新聞に掲載された広告 |
田中は最初、関大OBによる関西の球団を目指したという。 当時大阪鉄道管理局監督だった関大OBの本田竹蔵を監督に推薦した。しかしながら、阪神電鉄側は東京六大学出身の監督を希望した。人気の面で東京六大学と関西の大学の差があまりに大きかった事が根底にあったそうだ。 そこで明星商で強打の内野手として活躍し、明治大学に進んだ谷沢梅雄(明治大学助監督)を監督に内定した。ところが予想外な事に谷沢が明大の監督に昇進してしまった。 このような背景から、早大OBだった森茂雄を初代監督として12月1日に契約した。 |
12月10日に株式会社大阪野球倶楽部が発足した。 会長 松方正雄 (JOBK理事長) 専務取締役(球団代表) 富樫興一 常務取締役 田中義一 取締役支配人 中川政人 取締役 吉江昌也 監査役 石井五郎 監査役 大村義雄 という陣容だった。 12月10日の球団結成時には阪神電鉄の今西社長、石井専務、岡常務らも駆けつけた。 ここで内定せるものとされているのは、門前眞佐人・山口政人・藤村冨美男・藤井勇・佐藤武夫・菊矢吉男・岡田崇芳・佐藤栄一の8人、大学卒の選手として沢村との対戦を望み自ら門をたたいてやって来た松木謙次郎などだったようだ。実際にはこの時点で内定した選手の中には入団しなかった選手もいたわけでほかにも数人の選手が契約の場についていた。 阪神電鉄らしく甲子園に出場した中学野球のスター選手が多い。甲子園のスター選手だった呉港中学・藤村の勧誘には極めて熱心だったと文献に記録されている。12月12日には松山商業の伊賀上も契約した。 12月24日の朝日新聞記事では「廣島縣下の中学に職業野球の脅威」との記事がある。 職業野球団からの激しい勧誘により、門前・藤村ら中学野球の有力選手が契約して行く中で、中等学校側が脅威を感じて問題提議していた事が伺える。当時は野球が「まともな仕事」とは受取られていなかったのだろう。 この影響かどうは定かではないが、12月中旬以降に契約した中学卒の選手は山口中学の渡辺一夫ただ一人だった。12月後半からは大学、社会人の選手が続々と契約している。 選手の招聘には富樫・田中・中川のフロント3人の他、監督の森茂雄や若林忠志が大きく貢献している。立教大学を中退させて入団させた景浦将の獲得には松山商業OBの森茂雄の力が大きかった。 景浦が契約したのは2月28日だったが、それまで一塁手の松木を除き内野手は中学卒の選手ばかりで内野手が不足していたので、六大学のスターだった景浦はどうしても必要な選手だった。卒業後は実家の材木店を継ぐ予定だったが、経営難の材木店を契約金で救済できるる事で決断した。 阪神電鉄は「甲子園線の上甲子園−中津ノ浜」「海岸線の出屋敷−東浜」「神戸地下線の元町まで」が開通し、最も路線が充実していた時期、まさに阪神電鉄王国を築いていた時代だった。 |
大阪朝日新聞紙面 球団発足を伝える |
参考文献
輸送奉仕の50年 (阪神電鉄 1955年)
阪神タイガース昭和のあゆみ (阪神タイガース 1991年)
大阪タイガース球団史 (松木謙次郎・奥井成一 ベースボールマガジン社 1992年)
真虎伝 藤村富美男 (南万満 新評論 1996年)
朝日新聞 縮刷版 (1935年)
大阪朝日新聞 (1935年)