藤村監督排斥事件


背景の整理

藤村監督排斥事件の背景を整理すると右図になる。
この事件は金田正泰を中心にした選手達が藤村監督の采配に不満を持ち、反逆を起こしたように見られている。中心にいたのは金田だったが裏で仕切っていたのは青木一三スカウトだった。

この事件の発端は54年に起きた大阪球場事件をきっかけに松木謙治郎が退団してしまった事による。松木謙治郎は球団をひとつにまとめていたが松木がいなくなってからバラバラと派閥がまとまらなくなった。御園生崇男をかつぎたい関大系のフロント幹部は田中義一代表の言う事は聞くが、田中代表は入院中で抑えがきかなくなっていた。
関大派の田中専務と電鉄本社から送られてきた下林常務の歩調はまったく合っていなかった。田中代表はタイガースを作り上げた素晴らしい人であるのだが、前任の富樫代表と違って電鉄の出向社員ではない事から、電鉄本社に対して発言力がない。富樫の下でのナンバーツーであればそれなりの働きをしたが役不足であった。
電鉄本社から55年にやってきた下林良行常務は野球に素人である。会計上は電鉄本社の前田常務に抑えられていた下林常務の給与面に選手一同不満を持っていたが、上司には逆らわない藤村監督は口答えをしなかった。藤村は金に無頓着で、契約更改でも提示された金額で即契約していたが、最大のスターの藤村が金額を引き上げないため、下の者はいつまで経っても給料があがらないという解釈もあった。藤村監督がなんとかしてくれないならばと選手は集結したが、表立って常務に逆らう事もできないため、何もしてくれない藤村が悪いのだと問題をすり替え藤村監督排斥を決議する運動に置き換わった。
松木謙治郎は前年に退団し、大映に移籍している。この事件の影の中心人物である青木一三はこの夏に退団し、大映に移籍しようと思っていて田中代表もそれを了承したが、野田誠三オーナーに慰留されて残留する事にした。球団内の不穏な空気を知っていた青木は、このときオーナーに「このままなら年末には事件が起きる」と予告した。

3つの集団

青木は絶対にクビにならない13人を集めた。
運動の中心となったのはベテラン金田だった。この運動に参加した選手達は「賃上げ要求運動」のつもりだったようだが、金田自身は比較的給料の高い位置にいた。金田としては藤村監督と仲が悪いわけではないが、金田を大事に扱ってくれていた富樫代表がいなくなった事が大きい。騒ぐ同僚のために立ち上がった気持ちが半分、次の監督になろうという気持ちが半分であったろうか。給料がなかなか上がらない田宮・白坂・徳網の中堅・ベテランがこの一派だった。田宮はこの後、移籍する事になるが、多かれ少なかれこの事件の山村さんの件が尾を引いている。
2つ目のグループは真田を中心とした和歌山集団。真田を慕っている井崎は56年に入団した甲子園のスターだ。球団は井崎に800万円もの契約金をかけた。キャンプの後、一旦和歌山に戻ってから夜行で球団に合流した日に紅白戦があった。球団は客寄せに是非とも井崎を投げさせたかったので藤村監督に登板を指示したが、肩ができていない状態で投げさせられた井崎は故障してしまう。和歌山集団はその一件以降藤村采配に不満を持っていた。
3つ目は青木スカウトが集めた若手である。青木スカウトが安い契約金で獲得してきて活躍すれば給料が上げるという約束だったのに、活躍しても給料が上がらない。小山や吉田らはいつまでも給料が上がらないのに西村一孔などは最初から高い契約で給料をもらっているから理に合わない。彼らの不満を青木スカウトが取りまとめていた。

事件の進展

11月初頭、3つのグループはひとつになり、野田オーナーに藤村監督の解任を申し出た。オーナーは却下したが、病床にあった田中専務に代わって阪神電鉄東京出張所長の戸沢一隆を球団代表に据えた。
11月15日に就任した戸沢は青木に事態収拾の協力を求めたが、青木が拒否したため、まず青木を解雇した。
戸沢は選手一人一人と話し合い、この事件は表向き監督不信だが、その裏には「楽しく野球をして優勝したい」という各自の思いがある事にすぐ気付いた。戸沢は新聞記者には一切口を閉ざしたので、当時の新聞記者達は事実を知らずに記事を書いていたのだと戸沢はいう。
問題解決の方針は11月28日の球団首脳会議(野田・前田常務・戸沢・下林)で決定した。決定に従い、12月4日に藤村監督の留任と、各派閥のトップ金田、真田、青木の解雇を伝えた。
金田はそのあとの会見で「タイガースを強くするために考えてやったことだ」との発言をした。残された排斥側の選手達はさらに態度を硬化させ、ここに日下章と駒田桂二が加わった。

戸沢はこの時、事態の軟着陸を予定し、生抜きの金田については解雇した
もののコーチ等での球団への復帰方法を考えていた。
新聞情報しか知らない東京後援会の山村さんが金田を勝手に説得し、中途半端な形で藤村に対して頭を下げさせ和解させた。金田が降参してしまうと、後に続く者の立場がなくなった。金田は裏切り者のレッテルを貼られる事となったし、事態はもう一度混乱の方向に向かった。
(金田と藤村の和解については別の説がある)

戸沢が収拾へとむけて話をすすめた。約2ケ月かかったこの騒動だったが、軟着陸させる事が出来たのは戸沢の努力の賜物である。
解雇されたのは青木一三、真田重男。藤村監督は現役を引退する。
加えて藤村の弟の隆男は広島に放出され、後から騒ぎに加わった駒田と日下も解雇となった事も発表されていないが騒動とは無縁ではないだろう。藤村監督の麻雀仲間だった渡辺博之も1年後に放出された。
御園生コーチは一旦二軍監督に移ることとなる。
田中儀一常務が降格となり関大系のフロントは大きく力を失った。タイガースのフロントは球団設立からずっと電鉄本社系と関大系の2本柱だったが、これ以降電鉄本社直結に一本化されていく。

その後

翌年、チームは何事もなかったように元の雰囲気を取り戻した。
戸沢代表は野球には素人であったが、この後タイガースに真剣に取り組み、遠征にも必ず同行するなど選手とのコミュニケーションをはかった。以後20年近くタイガースの代表として活躍する。(20年も継続したために、逆に悪い部分も見えてしまったが)
給料については「戸沢代表がしっかり考え、他球団に対しても評価できる金額に改めた」と青木一三は語っているが、これも新聞には公表しなかったので、いつまでもセコイ球団だという報道ばかりが流れている。いまだに「阪神はセコイ」と思っている向きがあるが、成績の割に阪神の給料は低くはない。(本文を記述したのは2001年のことです)

戸沢代表は藤本監督を招聘し、2度の優勝を果たしたり、安芸のタイガーデンを整備するなどチーム力強化にあたった。その功績は非常に大きかったが、関西人らしく「給料が上がるから勝つなよ」というような冗談をこぼすため、マスコミが間にうけ、後年は色々たたかれたようだ。


制定:2001年
改訂:2011年5月20日 図を入れ替えました

げんまつWEBタイガース歴史研究室