大阪球場の暗いナイター設備によって起こった二度にわたる審判のジャッジに対する怒りからのファン乱入事件。大阪球場を借りて実施されたナイター試合にて、松木監督の退団へと発展するファンを巻き込んだ大事件が発生した。
53年の阪神−巨人戦のナイター興行を大阪球場にて実施したのは、甲子園にナイター設備がなかったためだ。
試合を他球場で実施するのは運賃収入にも影響する。ナイターの必要性は論じられていたのだが、米軍がスタンド下を接収し続けていた為に工事が出来なかったというのが一般論だ。54年3月31日の球場接収解除後、56年4月26日に甲子園のナイター設備は竣工した。
もし、54年シーズンにナイター設備が完成していれば、この事件は起こらなかった。松木謙治郎監督の引き際はゴタゴタしたものにならなかっただろう。松木監督の大映への移籍がなければ、藤村監督排斥事件も田宮移籍事件も、きっと起こらなかったに違いない。
最初の事件は53年7月23日大阪球場での阪神−巨人戦だった。タイガース主催初のナイター試合だった。人気カードの初ナイターという事で、大阪球場が落成してから初めて満員となった35,000人の観客がつめかけた。
5回、一塁走者の金田正泰が走塁中に巨人二塁手の千葉とぶつかる、判定は金田の守備妨害となった。
7回、3番手の藤村隆男が投げた千葉へのデッドボールをきっかけに両軍ベンチが飛び出す険悪な雰囲気になった。この時点で阪神は5−2で負けていた。
9回裏、田宮が二塁打で出塁して1死二塁。続く金田が右中間へ放った飛球はフェンスに当たってからセンターの与那嶺が捕球した。与那嶺が手をあげたため山下線審はダイレクト捕球と誤審してアウトを宣告した。ダイレクト捕球の判定だったので与那嶺は二塁に送球し、一気にホームに駆け込んだ田宮はアウトとなった。
与那嶺自身が後に認めたとおり、打球はフェンスに当たってからの捕球であった。当時の大阪球場の外野照明は700ルクスと非常に暗かった事が災いしての山下線審の誤審だった。
ゲームセットとなり松木監督・藤村・金田・御園生の抗議が続く中、卑怯な巨人軍はそそくさと引き上げてしまった。
当然だろう、一番近くで見ていた外野のスタンドからはファンがなだれ混んだ。1時間15分の間、ファンと警察官のこう着状態は続いた。
この時、山下線審の肩を持ったのが左翼線審の杉村正一郎だった。貴方もタイガースファンなら解かるだろう。この時の審判の名前は決して忘れないのが阪神ファンだ。経験の浅い山下審判よりも、杉村審判に怒りの矛先が向かったのだ。
第二の事件は翌年、54年7月25日阪神−中日戦でのストライクの判定だ。再び大阪球場でのナイターだった。
このゲームの主審は昨年の試合に関わっていた杉村審判員だった。
10回裏、3点差で敗戦ムード濃厚なタイガースの先頭打者は代打の真田。カウント2−2からピッチャー杉下の投げた球は「伝家の宝刀」のフォークボールだった。真田はファールチップし、中日の捕手・河合が慌てて捕球したようだ。審判の判定はファールではなく空振りで真田は三振となった。
「また杉村か」そういう気持ちがあったという。
松木監督が猛抗議する中、次打者の藤村冨美男は杉下主審のアゴに右フックを入れたという。藤村はこの試合まで1014試合の連続試合出場記録を継続中だった。「藤村を退場させてはまずい」との機転から、松木監督は自分が退場になって話をうやむやにしようと考え、杉村主審を柔道技で投げ飛ばした。この騒ぎの間に数百人の観客がグランドになだれ込んだ。
警備の警官が出動し、1時間7分間の中断となった。
松木監督は退場を宣告されたために退場し、藤村は「風呂に行け」というような、あいまいな表現で退場勧告を受けたそうだ。監督代行は金田、代打は石垣となった。代打石垣は通告されていたのだが、藤村は今ひとつよくわかっていなかったので打席に向かったために、ここで再び退場宣告を受けた。
せめて藤村の打席を見たかったファンは再びグランドに乱入した。
10時55分、試合続行不可能のため大阪タイガースの放棄試合となり、0−9での敗戦となった。
二回目の事件は負け試合のノーアウトからの空振り三振。
誤審であっても、冷静に考えればそれほど熱くなる問題ではなかった。そういう面では藤村も松木も熱くなりすぎた。
前年の問題が背景にあるから、杉村審判だったから、二回目の出来事は事件となったのだ。
田中代表が弱腰だったと言われるが、この事件だけとれば連盟の制裁処置をおとなしく受け入れるのも仕方ないかと思うし、さほど弱腰とも思わない。ただ、田中代表にも、それまで積み重ねられたものはあったのだろう。
この後、セ・リーグ緊急理事会で下された処分は
1.松木謙治郎監督は5日間の出場停止と制裁金3万円
2.藤村富美男は20日間の出場停止と制裁金5万円
3.監督代行となった金田正泰は指導不十分なため戒告処分
松木監督以下選手側の言い分は 「原因は審判の誤審にあるのだから、タイガースが厳しい態度で反論せずに処分を受け入れるのはおかしい」
という事だった。
というのも、当該審判も秘密裏に処分されているのに、いかにもタイガース側だけが悪いような裁定を受けているからだ。
この時の処分を文句を言わずに受け入れた大阪タイガースの田中義一代表の弱腰とみなされた態度は選手の強い反感を買ったそうだ。元々松木監督は田中代表とは馬が合わなかった方だが、この事件以降二人の決裂は決定的なものとなった。松木監督はこのシーズン限りで辞表をたたきつけて退団する事となった。
表向きは給料面が問題だった。そもそも監督は選手におごらなくてはならないと言う考え方の松木監督は、私財を投げ売った収入と配偶者の稼ぎで監督を続けていた。だから金に厳しい田中代表や電鉄社員とは合わない。退団については事情を知る青木一三も、フロントとの意思の疎通を欠いた事が本当の退団の原因だと語っている。
弱腰のフロント、セ・パ分裂までは富樫興一が代表を務めていた。マネージャーとしての田中代表の力には限界があったのだ。電鉄や連盟に顔が利く富樫ならば、難しい問題点も何とか対応出来ただろう。富樫はセ・パ分裂と毎日の引き抜き事件で心労がたたって50年に退団した。この事件にもセ・パ分裂以降の一連のつながりを見る事ができる。
この後の藤村排斥事件などは、この時に松木監督が退団に至ったゴタゴタが尾を引いたものだ。
すべての事件はセ・パ分裂から尾を引いている。