松戸と職業野球の宿

松戸出身と言えば和田豊ですが。


若林忠志。戦前のタイガースのエース兼監督。戦時下の職業野球中断により妻の実家・石巻に疎開し、そこで「太平洋水産」という事業を行っていた。当時38歳、もう二度と職業野球に戻らぬと思われていたが、タイガースの関東の宿舎が松戸の海老屋旅館だと知った若林は「石巻から甲子園は遠いが松戸までなら会いに行ける」と思った。そしてナインに会うだけでは済まず、ついつい試合に出たくなり1946年9月22日後楽園球場での劇的な球界復帰へとつながった。若林の物語の中で必ず出てくるのが松戸の海老屋旅館。

タイガースが戦前使っていた後楽園に近い千代田区の常宿をやめて、戦後まもない頃に松戸に宿舎を移した理由はヤミ米が手に入りやすいからに他ならない。(参考 宿舎の変遷
現在、東京スター銀行がある場所にあった一丁目根戸屋旅館は金星スターズが、冨吉旅館には阪急軍が、少し外れるが松栄館にはパシフィックも松戸市内に遠征宿を据えていた。これは全部、食料の事情によるものだった。
海老屋旅館は1泊3食ついて600円だったが、米だけは自己調達しなければならなかった。後背地に広い穀倉地帯を有する松戸ではヤミ米の調達が可能だったので、選手達は試合の合間にヤミ米の調達に走った。「七色の魔球」219ページで長谷川善三の証言では「農家が馬車に積んだ肥桶に隠し米を詰めて旅館に運び込んだ」とある。
「阪神タイガース昭和のあゆみ」の中では1946年〜1950年6月まで松戸市本町の海老屋旅館で宿泊していたとある。ところが松木謙二郎著「大阪タイガース球団史」312ページでは金町の旅館とある。まずは、松戸なのか金町なのかが問題なのだが、松木謙二郎氏は1950年に復帰したわけで、すぐに旅館が変わったのだから記憶に薄そうだとは想定できた。
とりあえず、松戸駅に行ってみる事にした。

知らなかった。上の写真に撮ったように松戸の手前の駅は北千住だとばっかり思い込んでいたが、江戸川の手前に普通しか停まらない「金町」という駅がありました。松木謙二郎氏は金町の駅前からリンタクで宿に向かったと本に書いてあるので納得。宿はやはり松戸市なんだなと思いました。

松戸市本町を地図で調べると駅前の西側の一角なので歩いてみましたが、なんともビルばかり。海老屋がどこかもわからないし、何も残っていないから断念し帰ろうと思った。
何も収穫がないので、松木謙二郎にならって金町までリンタク(がないのでタクシー)を使ってみる事にしました。運転手から、金町に向かう道は水戸街道、松戸はもともと松戸宿という宿場町で宮前町までが宿の中心だった事などを聞く。
郵便局のあたりで「ここが宮前町」などと聞いた。
ところが、自宅に戻って松戸宿についてよくよく調べてみると。。。 
江戸時代の松戸宿の旅籠に海老屋という宿がある。
さらに調べてみると、その旅籠・海老屋がどうやら三丁目海老屋旅館そのものだった。タイガースがヤミ米を求めて泊まった宿屋は江戸時代から続いていた由緒正しき宿屋だったのだ。

しかも、あの運転手が「ここが宮前町」と言ったその場所が旅籠・海老屋の場所そのまんまだった。郵便局と交差点の間の所、地図の写真の一番下の黒丸のところ。この地図、松戸駅の駅前で撮影したのだが、その時は海老屋の位置は写真の真ん中ぐらいと思っていたから、こういう黒点がギリギリになったような写真になってます。

失敗した。

上野から20分。後楽園の水道橋から上野まで10分ぐらい。
1950年から松戸の海老屋旅館をやめて清水旅館へ移ったのは、ナイターゲームが始まったためだった。
今ほど深夜まで電車が走っていない時代、ナイター終了後風呂に入ってからでは終電に間に合わなくなる恐れがあったのだ。
松戸駅 左は柏 右は北千住
駅前より伊勢丹方面
駅から南へ、黒丸の位置

げんまつWEBタイガース歴史研究室