富樫淳
初期のダイナマイト打線の2番に名前を残しているのだが、タイガース選手としての知名度は低い。しかし、歴史研究を始めた頃から、色々なところで名前を見つけてしまう気になる選手だった。
歴史研究上、富樫淳が気になるのは以下のポイントだ。
・富樫興一の息子であること
・幻の甲子園大会に出場していること
・選手としての寿命が極めて短いこと
・1945年の東西対抗メンバーに入っていること
・監督として甲子園・都市対抗に出場していること
球団代表の息子で、甲子園に出場し東京六大学野球にも加わったバリバリのサラブレッドだ。しかし、現役生活がきわめて短く、華やかな活躍よりも苦難の日々が長かった。
ここに猛虎偉人伝 3人目の人物として登場していただく事にした。
富樫淳は大阪タイガース初代球団代表・富樫興一の次男として1924年8月22日兵庫県に生まれた。甲子園球場史を見ていただければ解かるように、1924年8月は甲子園球場が誕生した時。父親・興一は初代甲子園球場長に就任し、甲子園球場の近くに住んだ。富樫淳は甲子園球場と共に生まれ、甲子園球場と共に育ったのでした。
父親の働く甲子園球場にも兄と共に時々出かけていたので、幼い頃から野球に馴染んだ少年でした。小学生の頃にはすでに野球熱に目覚めていたと言う。
1936年春、職業野球の興行がはじまった頃が12歳。その頃には兄の富樫泰は関西学院中等部で本格的に野球を始めていました。富樫淳は実家の近くにあったタイガースの協和寮にも度々遊びに行き、兄のような選手たちに弟のように可愛がられていた。
西宮にある関西学院中学に進学した時、富樫淳は投手として県大会を勝ち抜き1939年の甲子園大会に出場している。この時に兄の富樫泰が内野を守っている。
その後、平安中学の高等科に進む。
甲子園大会の記録には含まれていないが、富樫淳は平安中学時代の1942年にも甲子園大会「大日本学徒体育振興大会」で投球している。
「大日本学徒体育振興大会」は戦火の中で中止となった中学野球選手権大会に代わって催された文部省主催の幻の甲子園大会。後輩の小俣秀夫・中村徳次郎もこの大会に出場していた。市岡中学戦ではノーヒットノーランを記録した。決勝では敗退し準優勝だった。
法政大学に進学した富樫淳だったが、すでに東京六大学野球リーグは中止になっており、記録に名前を見つけることはできない。戦時中、大学で野球に励める時代でもなく、学徒動員により八尾(現在の八尾空港)の整備中隊に動員された富樫淳は、そこで終戦を迎えることとなった。
戦後、野球に情熱を燃やす者達によって職業野球の復興は予想外に早いペースで進んだ。
終戦後の9月にはすでに東京・大阪で野球に向けた復興の動きが始まった。
タイガースは宝塚在住の田中義一を中心に復興の道を歩み始めたが、球団の代表だった富樫の父、興一は故郷の米沢に疎開し、復興に力を発揮できない状況だった。富樫の西宮の家は空襲により焼失していた。八尾から米沢に向かった富樫淳は、父に代わって終戦間もないタイガースに加入し、復興の原動力となった。
戦時中、阪神電鉄の浜田車庫で働いていた選手達に富樫淳が加わった。復員した土井垣武、藤村富美男らスター選手も加わった。
1945年11月23日、戦後の野球復興の第一歩となった神宮球場での東西対抗にも、藤村・土井垣・呉・本堂らのスーパースターと共に富樫淳が登録されている。富樫は出場しなかったが投手として登録されていた。本人は「メンバーの1人として雰囲気に馴れさせるために連れて行かれた」と語っているが、実際の所この頃の記憶はあまりなく、食糧難だったことしか覚えていないと言う。
1946年2月1日に大阪タイガースと正式に選手契約した。
タイガースは選手が9人集まらず、富樫の誘いで平安の後輩の小俣・中村らが加わってようやく9人がそろったような状況だった。甲子園球場は米軍に摂取されており使用できず、今津に間借りした選手たちは空き地でキャッチボールをしながら野球の再開を待ったと言う。
46年は開幕まで投手として登板していた。実際のところは、中学時代は好投手だったとは言え、すでに投手としては投げられない状態になっていたという。