狸スカウトの江夏指名


石床の指名

1965年、当時の関西球界で最も名前が売れていたのは育英高校の鈴木啓示、12球団のほとんどが目をつけていた逸材だったが、鈴木の父親が熱狂的な阪神ファンで河西スカウトとも密接に連絡を取り合っていた。鈴木は阪神に行くものと100%決まっていた。ドラフト会議の2日前には河西スカウトが「必ず指名するからよろしく」と鈴木家を訪れていた。
ところが、阪神はドラフト会議で2位の指名順位を引きながら、鈴木を指名せず、まったく無名の土庄高校・石床を1位で指名した。
阪神担当記者たちは西宮の鈴木家に集まっていたので、ニュースを聞いて鈴木の父親が真っ青になるのを目撃し、それを記事で伝えた。
東京のドラフト会議の席上で、佐川スカウト部長は報道陣に「鈴木を指名しなかった理由」につき説明を求められ、こう答えた。「私はスカウト生命に賭けて石床君を指名したのです。みなさんは、中央球界では無名である事に不審を抱かれているようだが、無名でもすばらしい選手はいるのです。まあ、プロに入ってからの石床君を見てください。

佐川の考え

1965年、タイガースは鈴木を徹底的にマークしていた。
9月、育英高校対大阪学院の試合が大阪学院のグランドで行われた。佐川は鈴木を徹底的に観察するため、学校へと向かい、バックネット裏から見ていた。鈴木は延長15回まで続いて結局引き分け。力強いストレートにカーブを交えて奪った三振は27個。
だが、佐川はこの時、鈴木と対戦する投手に目をひきつけられてしまった。同じ左投手だが2年生、江夏豊。奪った三振は15個。しかし球種はまっすぐ一本。ただ、疲れ果てて4失点した。「鈴木というピッチャーは本当にすごい」江夏そう思った。
だが、佐川は江夏の方を気に入ってしまったのだった。梅田の球団事務所に戻った佐川は「まだ2年生だが凄い左投手がいる。いまのところ無名だが、あのバックでは甲子園に出ることもないだろうし、誰にも目をつけられずに済むかもわからない。ただ、凄い投手であることは間違いない。」と、戸沢代表藤本監督に報告した。
この日を境に、阪神は江夏をマークするようになった。藤本監督・杉下投手コーチも江夏を見に行った。この時「日本有数の剛速球投手になるぞ。」と、藤本と杉下の意見が一致した。
すでに、「来年は江夏を指名しよう」と、1965年のドラフト会議前から首脳陣の意見は決まっていた。河西スカウトのみが知らなかった。そして、鈴木啓示の指名は見送られたのだった。
狸親父だ。

1966年ドラフト

大阪大会の準決勝まで進んだ江夏の評判は上がっていたが、タイガースは運良く江夏を指名できた。
江夏は東海大学へ進学の話が決まりかけていた。大学が欲しいのは江夏1人だったが、大阪学院からは4人が東海大学を受験することになっていた。仲間のためにも、江夏は大学に行くことを決めていた。河西スカウトに断りを入れた。
担当の河西スカウトに代わって交渉に来たのは佐川スカウト部長だった。この交渉話は有名だ。「オレは君なんか、たいした投手だと思っていない。だから本気で入団の交渉をするつもりはない。球団がドラフト会議で君を指名して、オレに入団交渉してこいと言うから来ているだけだ。阪神に入りたくなかったらこの話は断ってもいいんだぜ。いっとくが契約金は1千万円。給料は年俸180万円。」それだけ言って、さっさと帰ってしまった。頭にきた江夏は、契約書にサインしてしまった。
狸親父だ。

真相

このコラムは内外スポーツ・浅香記者の取材を参考に書いている。
石床の指名は江夏指名のための単なる当て馬だったのか?真相はわからないが、2年の時から江夏をマークしていたのは事実らしい。杉下コーチが江夏を見に行ったと言うのも事実らしい。とすれば、江夏のために鈴木啓を回避したとも思える。鈴木と比較できる有名な投手よりは、鈴木と比べようのない無名投手の方がいい。2位で藤田平を取れればそれでいい。そういう判断だったかもしれないが、これ以上の真相はわからない。
ただ、佐川スカウトの策略が動いていたのは間違いない。


げんまつWEBタイガース歴史研究室