猛虎 裏方伝説 〜打撃投手編

裏方さんの話題は少ないのですが、こういう話が大切なのです。     04/1/29改訂

裏方さんの仕事 打倒!沢村 初の打撃投手専任者 300勝投手が打撃投手 なぞの経歴 田淵幸一を支えた男
打撃投手のプロ化 掛布の恋人・岡田の恋人 春団治の相棒 現役復帰 プロ登録経験なし
兼務 おまけとは言わないが 打撃投手で復帰


裏方さんの仕事

04年現在 タイガースには9人の打撃投手がいる。

打打撃投手は8人が一軍の試合にスタンバイし、4人2組で行動します。打撃練習では一人30球づつを2回打つので、打撃投手8人で分担しても毎日100球以上は投げる事になります。十分な打撃練習を実施するには打撃投手の頭数が必要な訳です。

<打撃投手の仕事>
  フリー打撃の投球、トス打撃のトス、打撃練習中の外野での球ひらい、守備練習手伝い、用具片づけ整備
  試合中はビデオ撮影などフロント業務に携わる事もある
  球を投げるための自主トレーニング・体調管理も仕事のうち

打倒! 沢村

打撃練習の際に投げれば誰でも打撃投手とは言えるだろう。36年入団の左腕・渡辺一夫は公式戦では一試合も投げていないが、左投手対策の練習に重宝したと言われたのだから打撃投手と言ってもよいかもしれない。しかし、正式な記録はない。
猛虎伝説の記録に残る最古の打撃投手は37年の青木正一投手と加藤信夫内野手だろう。
読売のエース・沢村栄治の速球に異常なまでのライバル心を持った主将・松木謙治郎以下タイガースナインは、通常の投球位置より手前に打撃投手を立たせて打撃練習を行った。(これは松木が明大時代に早大・伊達正男を打つため行った練習法だった。藤井勇の鳥取二中も同じ練習をしていたそうだ=週間ベースボール02年12号)
通常の投球位置の1m手前から、打撃投手として投げ込んだのが 青木・加藤の二人だった。
練習の甲斐あってタイガース打線は爆発し、この年見事優勝を決めた。
松木謙治郎著の文献には「沢村対策として釣を打撃投手として30cm前に立たせ」とあるが、釣は38年入団なので、37年の優勝をこの練習の効果とするなら松木の勘違いだろう。
釣は球が速く、コントロールが甘いので30cm前に立たせると恐ろしかったと言う。釣も打撃投手をしていたのも間違いなさそうだ。

初の打撃投手専任者

38年 当時日本領だった朝鮮半島から、全京城のエース朴賢明(林投手)が参加した。
彼に与えられた主な仕事は打撃投手、試合では2試合しか登板していない。
関大出身の投手らと比べてもコントロールよく打ちやすかった為という説と、朝鮮半島出身者に対して向けられた差別的待遇があったという説がある。27歳で入団したが、同時期に入団した中学卒の木下勇と同じ140円の月給であり、入団後二人とも打撃投手をつとめたという事であるが、木下の方は二桁勝利を記録するなど成長していく。
何はともあれ、裏方としてその功績をたたえ、初代打撃投手と認定する。

300勝投手が打撃投手

専任の打撃投手が登録されるまでは、二軍の若手投手が打撃投手を努めた。
53年「打撃投手なら使えるだろう」とテスト採用された小山正明投手のコントロールのよさは一軍主力打者陣にいたって好評で、52年入団の渡辺省三投手と共に一軍鴨池キャンプに帯同し打撃投手を勤める事となった。
小山は、この打撃投手経験でコントロールに磨きがかかったと言っている。後に”針の穴を通す”とまで言われた小山のコントロールだけに、藤村富美男の本塁打王・打点王にも効果があったとさえ言われたほどだ。
渡辺省三の方は緊張してしまい、当時のエース・梶岡の手にデッドボール、梶岡は負傷して投げられなくなった。これが幸いして。。。一軍の投手が不足した為に渡辺が一軍帯同となる運のよさ。
選手の数も少なかったので、一軍に帯同できれば実戦でなげられるチャンスも訪れる。打撃投手は一流投手への登竜門だった。

謎の経歴

1970年前後に不思議な経歴を持って入団した投手が2人いる。
豊村建泰 : 浪華商→近鉄バファローズ→4年間のブランク
畑口健二 : 法政工→大洋ホエールズ→グローバルリーグ・東京ドラゴンズ

豊村の近鉄退団後の4年間は特に謎で、プロアマ問わずどこの有力チームにも属していない。近鉄・南海のいずれかで練習相手を勤めていたのだろうと推論はあるが確証がない。採用したのは「練習投手として使いたかったのだろう」との事のようだ。
畑口は左投手で練習相手として重宝したそうだ。グローバルリーグ・東京ドラゴンズを経験しているという事もあり、何人かの記憶にとどめられている。文書としても「阪神タイガース 昭和のあゆみ」の中で、”練習投手” と記されている。
いずれにせよ、高校時代はそれなりに名が通っているのにプロではまったくの無名選手。せめてこの章にでも名を残しておきたいと思いました。

田淵幸一を支えた男

75年に本塁打王を獲得した田淵選手には3つの不可欠な柱があった。
1.ラッキーゾーンを少しホームよりに移設した
2.山内一弘コーチとの出会いによる打撃技術の完成
3.似鳥功打撃投手の存在

似鳥投手は74年頃から打撃投手兼務(実際は専任に近い)となり、練習熱心な田淵相手に通常の打撃練習から練習後の特打までの練習相手をした。もちろん、自分の練習をする暇などなかった。当時のテレビでも「田淵の本塁打王を支えた男」として話題になった。

打撃投手のプロ化

打撃投手という専門職が本格的に発足したのは、79年の似鳥功新井良夫の二名
背景は
1.阪神浜田グランドの完成(79年3月30日)に伴う2軍の練習の浜田移転で十分な打撃練習時間が確保できた
2.ベテラン投手が投げる事での打撃調整への効果
3.登録人数の不足

このため、二軍若手投手の兼務者ではなく、専属の打撃投手を置いた。彼らは専任で出場選手登録は外されていたが、本音では将来の一軍での活躍を夢に見ながら仕事に励んだと言える。

掛布の恋人、岡田の恋人

中心選手には必ずお気に入りの打撃投手がいるものだ。
掛布の恋人は新井良夫、プライベートでも同行し、家も近く掛布と一緒の車で出勤するほど。
岡田の恋人は青雲光男、岡田の大好きなコースを熟知し、打撃練習でも青雲が投げれば岡田は快音を連発していた。ゴルフなどプライベートでも、やはり仲がいい。

春団治の相棒

わずか3年で現役生活を終えたスラッガーの小笠原正一。75年に球団から契約解除を通告され、用具係への転進を薦められた。
川藤幸三は試合出場がわずかな代打生活の中でコンディション調整をするために早出特打を日課にしていた。「マシンじゃ練習にならん」とぼやいているのを小笠原が聞き、「昼間なら休み時間があるから手伝おうか」と、軽い気持ちで練習相手を引き受けた。それからから12年余りにも渡って川藤の練習相手を続けた。
小笠原氏は専任の打撃投手ではないので営業部に転配属になったが、その後も毎日のように甲子園の室内練習場に来て川藤の相手をしたという。元々ピッチャーではないが練習に際して必要な技術をつけるため変化球を覚えた。投球に必要なコンディションを作るために走り込みをした。肘痛に悩まされる事も度々あった。すべては川藤の為というより、野球が好きだからだった。
のしのしと代打の打席に向かう男の影に、このような協力者がいた。

                〜ぼらかねさんから頂いた資料、相棒(後藤正治著作)より

現役復帰

打撃投手から現役復帰した例
85年 益山性旭投手 打撃投手で制球力がよくなり、春の安芸キャンプでテスト合格する。優勝メンバーなのだ。
88年 山崎剛投手 3年間打撃投手をつとめた後、1年だけ現役復帰。
95年96年 大石昌義投手 投手が不足して緊急昇格、96年は外野手登録、元々打撃もよかったのだ。

<近似例>
94年〜95年 中井伸之打撃投手は台湾で現役復帰
95年〜99年 村上誠一投手 ダイエー打撃投手からテスト入団 5年もの間 現役復帰
99年 左腕を渇望する野村監督は服部裕昭打撃投手に現役転向を打診するが、テストするまでは至らなかった。

プロ登録経験なし

ロッテの練習生から移籍してきた渡辺恒佳投手 はプロ選手だったが選手登録はされていない。

大阪の草野球のエースでテスト採用の尻無浜啓造投手は現役・裏方関係なくタイガースのユニフォームを着てボールを投げたかったと言う。

オリックスから移籍してきたイチローの恋人奥村幸治投手
奥村投手はプロへのあこがれが大きく、現役登録を求めて翌年西武でも打撃投手をつとめた。

兼務

「にゃんこ」藤本修二投手は二軍用具担当を兼務していた。タイガース主催のウエスタンリーグ公式戦がある時は、打撃投手とは言え、二軍の鳴尾浜球場にてケージやボールなど用具の準備を担当せねばならない。
一軍の主力打者が鳴尾浜で特打の練習を行う時は藤本投手の出番だ。だが、二軍選手の打撃練習で登板していたわけではない。ウエスタンは基本的にコーチや選手が打撃投手をつとめる。藤本打撃投手がケージを動かす横で、岡田監督の投球や御子柴コーチの見事なアンダースローが見れるわけだ。

おまけとは言わないが

多田昌弘打撃投手は広島カープでわずか2年の現役生活の後、8年間打撃投手を勤めた。「金本の恋人」と呼ばれ、公私とも金本と仲がよい。金本がFA宣言してタイガースに入団が確定した02年の暮れ、03年度の契約を締結するにあたり、みずから契約を拒否してタイガースの打撃投手として契約した。
選手であれば自由な移籍など出来ないのだが、「辞めたければ勝手に辞めろ、なり手はいくらでもいる」というような打撃投手の雇用契約の形態が垣間見えるのではないかな。

打撃投手で復帰

03年度は山崎一玄投手が打撃投手として復帰した。近鉄自由契約後、入団テストを受けて内定していた。が、その後にテストを受けた石毛投手の内容がよかった為に採用枠がなくなって選手契約できなかった。そして打撃投手での復帰となったのだ。03年春季キャンプではスカイAに「山崎を映して欲しい」とのメールが殺到し、何度もテレビ出演した。人気の打撃投手だ。

打撃投手で復帰した例 00年以降急増している。他チームの経験があるOBを優先して採用するのはいい事だ。
81年 上辻修 ロッテ→よみうり打撃投手
96年 藤本修二 西武
00年 安達智次郎 99年引退後、アルバイトで打撃投手に採用された
02年 渡辺伸彦 オリックス→横浜→横浜打撃投手
02年 古里泰隆 中日打撃投手
03年 山崎一玄 近鉄

<ちょっと違う例>
96年 中井伸之 阪神打撃投手→台湾三商で現役→阪神打撃投手


げんまつWEBタイガース歴史研究室